鈴木ともえ
占い師・占い講師・元看護師

占術:インスピレーションタロット、九星気学、四柱推命、エネルギーワーク

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はじめまして!占い講師のともえです。
このページに来ていただきありがとうございます☆

こちらで、私が”占い師になるまでのお話”をお伝えしたいと思います。この記事は【3分】で読むことができます。

地元の風景

私は1982年に福島県の会津で生まれ、歳の近い3人姉妹の長女として、のどかな田園風景が広がる小さな村で育ちました。

幼少期はアトピーや喘息、鼻炎などのアレルギーが酷くて、春や秋などの季節の変わり目には特に喘息発作など体調を崩しやすい子どもでした。

真夜中に呼吸が苦しくなり喘息の発作が起き、しょっちゅう母に連れられ病院受診をしていました。

発作がネブライザー(吸入薬)や点滴の治療でもなかなか改善しないこともあり、年に数回は入院をしているような少し病弱な子ども時代だったので、泊りでの家族旅行や地域の行事、学校行事にも参加することができませんでした。
(今では、とても健康なので病気がちだったことが不思議です!)

今思えば、母は「体が健康ならそれで良い」という考えだったのかも知れませんが、「勉強や運動はできなくても良い」「女が何でもできたり、頭が良かったりして目立つと嫌な思いをするんだよ」と良く言われていましたので、何でもなるべく頑張らないように、みんなから目立たないようにと気を付けてきました。

私はマイペースで人と競争することは好きではないのですが、それでも、私のもともとの性格は好きになったことはとことん集中するタイプ。

いつも「頑張らなくていい」と言われてきたので、勉強やスポーツで良い成績を残してしまったりすると、少し悪いことをしているような気持ちになり、いつの間にか、自分の気持ちを人に言えなくなっていました。

そんな中で、中学1年生の時に両親が離婚しました。ある日、突然父はいなくなり、事情を説明されることもなく母や祖父母は「お父さん、いなくなって良かったね!」と言って笑っていたので、私は「お父さんいなくなったのって、良かったことなんだ」と思い、ここでもまた「本当は、寂しかった」という、自分の気持ちを閉じ込めてきました。

ここまで母が毒親っぽく書いてしまいましたが決してそんなことはなく、私の母は、本当に誰にでも優しくて尊敬できる人です。
(仲良し親子でも、ちょっとした考え方の違いでこのような歪みが生じてくるものです。)

高校の同級生で一人暮らしをしている友達がいて、その子のランチがいつも菓子パン一つだけだったことを話すと、卒業するまでその友達のお弁当も一緒に作ってくれました。母は一人で私たち3人姉妹を育ててくれて、3人みんな専門学校まで出してもらって本当に感謝しています。


私は母に、自分のことを30歳くらいまでほとんど話さなかったので、手がかかるし分けわからんヤツと思われていたことでしょう。
(私は、決して母の事を嫌いだったわけではなく、単純に何を話していいのかわからなかったのです。)

実家にて

高校を卒業してから、高校時代にアルバイトをしていたファストフード店では正社員として3年ほど勤務しました。

副店長を任されていた20歳の時に、「次は店長をやってみてね!」と昇格のお話がありました。私は、他の職場で働いたこともないし自分は世の中のことを何も知らないと思っていたので、店長になってしまったら身近なところで何か教えてもらう機会が減ってしまうと感じ店長を辞退し退職を決めました。

退職したあと、製造業の仕事をしながら何をやるかしばらく考え、”専門的な知識を身に着けて人の役に立つ仕事がしたいな!”と思い、実家からでも通いやすい看護学校に行くことを決めました。

22歳より看護専門学校に入学し看護学校卒業後の25歳から、私は地元の病院で看護師として勤務していました。
(看護師として約15年、病棟・外来・訪問看護の勤務経験があります。2009年より占いの勉強をこっそりと始めました。)

地元の病院 外来メンバー

その病院では、毎年1名ずつ福島県の浜通りにある関連の精神病院へ出向する決まりがあり、私は2010年4月から1年間の任期で出向を言い渡されました。

そこで、2011年3月の東日本大震災で勤務中に被災し、入院患者さんの避難誘導をするという経験をしました。

福島第一原発からすぐ近く1.5㎞ほどの距離にある病院でした。

ギリギリ津波の被害はありませんでしたが、道路の至る所には大きな亀裂が走っていて、携帯電話もすぐ使えなくなりました。

それまで経験したことないような不安と恐怖があり、またその一方では、”看護師としてやるべきことをやらなければ!”という緊張状態が続いたあと、抑うつ状態となり仕事に行けない時期も1か月程ありました。
この被災は私にとって、価値観ががらっと変わる大きな出来事でした。

「人生どこでどうなるか分からないから、これからは自分の思った通りに生きていこう。」


そんなふうに思いました。
(震災後に結婚をしましたが、性格の不一致で1年半の結婚生活で離婚となりました。このお話はまたの機会で☆)

35歳のとき埼玉県に引っ越し看護師として精神科訪問看護の仕事をしていました。そこでは、医療的なケアよりもカウンセリングのような関わりが多い業務内容で、利用者さんとのコミュニケーションそのものが病状に大きな影響を与えるものでした。

利用者さんの多くは統合失調症などの疾病を持ち、些細なことがらに敏感な方も多くいらっしゃいました。看護師のちょっとした関わりで病状が悪化することも日常的にありますので、何気ない言葉ひとつにも細心の注意を払う必要がありました。

それでも、それまでの病棟や外来の勤務とは全く違い、利用者さんと心が通い合うような近い距離感で関わることが出来たことに大きな喜びを感じました。関わりの中で、利用者さんのできることが一つずつ増えていくことがとても嬉しかったです。

私はその当時、8時半~17時までの勤務の中で、多い時は1日7件の訪問でしたが利用者さんと長い時間お話していても全く疲れていないことに気が付きました。その時に、「私は人と話をするお仕事が向いているのかも!」と思ったことが、この後、占い師を副業として始めるきっかけになっていたように思います。

私は、「占い師として実際に活躍している先生に実践的な占いを習ってみたい!」と考え、某占いの館が主催するタロット講座に申し込みました。その時は、「この占いの館で働きたい」と明確に考えていたわけではありませんでした。

講座を受講するためには、なぜか「履歴書を持ってきてください」と言われ面接がありました。私は一般的な占い教室だと思っていたのですが、実は、占いの館の所属占い師を決めるためのオーディションだったのです!

私は大好きな訪問看護の仕事を辞めたくなかったので、土日のみや夜だけの勤務が出来ないか尋ねましたが、それは出来ないとのことでした。その占いの館には電話占いのシステムが併設されていたため、研修終了後に電話占い師としてデビューする運びとなりました。

このような、何となくの展開や偶然が重なったことで、私は導かれるようにして占い師になりました。

はじめて出演した占いイベント


もともとの私の核になる考え方には
『人の役に立ちたい!自分と関わる人が幸せに笑顔になって欲しい!』
という思いがあります。

これからはその思いに、もう一つ上乗せして
『みんなが自分らしく、生きることを楽しもう♪』
というポリシーでゆるく活動をしていきたいと思っています☆

最後までお読みいただきありがとうございました!
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